生浜東小学校の北東角を南へ曲がり、直近の左折口を曲がり、右カーブの坂を下りて行くと左手に金網のフェンスに囲まれた小さな台地の下に出る。手前の階段を上り切ると「大覚寺山古墳公園」の入口である。
千葉県指定史跡「大覚寺山古墳」は、この公園の入口のあたりから南へ突き出た小台地の上ほぼ全体を占め、前方部を北に向け、全長62メートル、前方部幅25メートル、後円部直径30メートルの数値は、古墳の範囲のとらえ方によって若干の変化は考えられるものの、市内では最大の規模を有するものであり、後円部の頂が比較的平坦で広く、前方部との高低差が
1.4メートルあり、前方部が比較的小さく低いという形は、古い時期の古墳の特徴をよく示している。
大覚寺山古墳を中心とした一帯は古墳の分布が多く、これを生実古墳群と呼んでいる。中心となるのはこの大覚寺山古墳と「ひょうたん塚古墳」の二つの前方後円墳と、「七廻塚古墳」という円墳である。
大覚寺山古墳の頂に立ってみよう。前方部の正面に見える二階建て住宅のあたりにひょうたん塚があったと伝えられ、「ひょうたん塚」という地名が残っている。眼を左手へ移すと、生浜東小学校が住宅の合い間から見える。その校庭には多数の古墳があったが、学校の建設(建設当時は生浜中学校、生浜中学校は後に移転)のために破壊されたと伝えられている。中でも1958年(昭和33年)に破壊された七廻塚古墳は非常に重要な古墳であった。
これらの古墳は千葉市と市原市の境を流れる村田川の流域の水田地帯を支配した古代の豪族の墓と考えられる。古墳時代の房総地方は、大和朝廷に服属した豪族が国造(くにのみやっこ)として各地を支配していたが、この付近は菊間国造(きくまのくにのみやっこ)の支配下にあったと推定される。村田川をはさんで、対岸の市原市菊間にも大きな古墳群が分布している。
645年の大化の改新のあと、全国を国郡に分けて国司がそこを支配するようになると、今度は村田川が上総の国と下総の国の境界にされた。大覚寺山古墳の頂から西南方を見ると、遠い台地上にひときわ大きい白いビルが目に入る。市原市役所である。それは上総の国の国分寺と国分尼寺との間に建設されているので、奈良時代にはこの方角に上総国分寺の七重塔を望むことができたのである。その台地下に家並みの見える所が市原市で上総の国、その手前の水田地帯が千葉市で下総の国、この間を村田川が流れているのである。 |
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大覚寺山古墳の頂から見た千葉市埋蔵文化財調査センター(1999年撮影) |
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