はじめに
京都において応仁・文明(1467~1477)の大乱が展開していた頃、関東でも室町幕府足利氏一族の内紛が続き、足利成氏(しげうじ)古河公方(こがくぼう)(下総)と室町幕府6代将軍義教(よしのり)の子、足利政知(まさとも)堀越公方(伊豆)の対立や、室町幕府の重職である関東管領の家柄であった、山内扇谷(おうぎがやつ)の両上杉氏が互いに争っていた。また江戸築城で有名な太田道灌が下総臼井城(現 佐倉市)の原氏を攻撃していたのは、ちょうど文明11年(1479)のことである。

このような乱世の中であったので、実力のある者が台頭していったのであろう、出身も明らかでなく、今川氏の所に転がり込んだといわれる北条早雲が堀越公方の弱体化の隙に乗じて、伊豆一国を支配し、明応4年(1495)には、大森氏から小田原城を奪い、後北条氏の基礎を開いている。

この早雲の台頭と、ほぼ同じ頃に房総においても、浜野本行寺の開祖日泰(にったい)上人と因縁のある酒井小太郎定隆(さだたか)が土気城主(現 千葉市)となっているのである。

兄の古河公方足利高基(たかもと)と対立した小弓公方足利義明(よしあき)が両総に勢威をふるいだした頃、北条早雲の子、氏綱(うじつな)は関東南部を着々と制圧してきており、義明との決戦は避けられない情勢になっていた。そしてそれはついに天文7年(1538)「第一次国府台(こうのだい)合戦」となって戦端が開かれたのである。

この合戦の時、安房の国内体制を掌握した里見義尭(よしたか)は、小弓公方と連合して、後に宿敵となる後北条氏と対戦している。

後北条氏によってつぶされたのは、小弓公方ばかりでなく、まもなく古河公方も、事実上後北条氏の傀儡と化してしまい、「第一次国府台合戦」以後の情勢は、次第に後北条氏・里見氏・上杉謙信・武田信玄・佐竹義重(よししげ)等の強大な戦国大名の動向に左右されていくのであった。

小弓御所没落後の生実は、千葉一族の原氏が復帰しているが、昔日の面影はなく、後北条氏に従属する一部将の拠点にすぎなくなってしまった。

天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原攻めは、関東の情勢をいっきに変えてしまった。生実も後北条氏没落と共に秀吉の支配にくり入れられている。

秀吉の命令により、徳川家康は同年8月、関東に入国してくるが、彼は旗本西郷家員(いえかず)を生実に配している。西郷氏は4代にわたって生実に住んでいたが、その後、寛永年間(1627~1628頃)にいたり、一万石の大名として森川重俊が生実の領主となり、以後明治維新に至るまで森川氏の生実藩が続いたのである。明治4年(1871)廃藩置県によって生実藩は藩邸跡だけを残して消えていった。
 

 
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