足利義明と小弓御所
小弓城がいつつくられたものであるかは不明であるが、永正4~6年(1507~1509)頃には原式部少輔胤隆(たねたか)が居を構え、西上総から上総にかけて勢力をふるっていたことは事実である。

永正6年連歌師宗長は小弓を訪れていることを「東路苞(あずまじのつと)」の中で記している。それによれば宗長は原胤隆の館の前にある浜野の法華堂本行寺に旅宿し、丁度千葉氏の崇神である妙見社の祭礼にぶつかり、それを見物しているが、出場馬3百頭以上にものぼる盛大な早馬が催されているのを見て、その勇壮さに目をみはっている。また原胤隆に招かれて小弓の舘を訪れているが、舘からの眺望を、「南は安房、上総の山立ちめぐり、西北は海はるばると入りて鎌倉山横たはり、不二の白雪、半天にさし覆ひてみゆ、駿河国にてみるよりは猶ほど近げなり、遠くてみるは近き山なるべし」と詠じている。

ところで当時小弓城の原氏は真里谷(現 木更津市)・庁南(現 長生郡長南町)の両城を拠点とする真里谷武田氏と所領争いを続けていた。おりしもその頃に古河公方足利高基の弟、義明は還俗し、父政氏と衝突して勘当され、関東から出て流浪し、陸奥の豪族葛西家の食客となっていた。原氏との争いで劣勢であった真里谷武田氏は、この古河公方の弟という高い家柄を利用して原氏に対抗する事を考え、足利義明を大将として上総に迎えたのである。

義明も天性剛勇で武将としての資質を備えていたらしく、たちまちにして劣勢を挽回し、永正14年10月には、いっきに小弓城を陥落させてしまった。

原氏を滅ぼした足利義明は小弓城に移り、ここを居城としたので、小弓御所といわれた。足利義明は「第一次国府台合戦」で戦死する天文7年までの14年間ここに住んでいたが、義明の死後は後北条氏と結んでいた原胤貞が小弓城に返り咲いた。しかしその後、原胤貞は北生実に築城して移ってしまったので、小弓城は廃城になったといわれている。

城跡は南生実町字古城・字森台・字松原・字東堀及び字台が主要部で、面積は約14.8haほどある。字本郷と共に一台地をなし、西部及び南部は水路をめぐらし、水田に面している。東部は字大百池(おおどいけ)に接している。城の中核は字古城で、俗に古城台という。現在は畑と墓地になっているが、この所はこの台地の一番高いところで、眺望は宗長の歌のごとくすこぶる絶景を望める地である。
公園として整備の進む大百池(1999年撮影当時)
 

 
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