八剱神社の由来と神楽
八剱神社は南生実町字本郷にある。
主神は日本武尊(やまとたけるのみこと)である。
大日靈貴神(おおひるめのむちのかみ)※3こと天照大御神(あまてらすおおみかみ)と、
大己貴命(おおなむちのみこと)こと大国主命(おおくにぬしのみこと)を合祀してある。

伝承によれば、日本武尊が東夷征伐のため東国に発向し、相模国三浦港より渡海の途中に小弓に立ち寄ったところ、当時荒夷(あらえびす)達は互いに自分達の国境のことで争っていた。そこで日本武尊は河をさして、その所を永く国境となすべしとさとして、翌朝天照日の大神を拝して、そこに日の大神をまつって奥州に出発していった。それ以来彼等は平穏に暮らせるようになったので、日本武尊を崇敬し、東国鎮護征夷武人八剱の神として日の大神と両神を祀ったのが八剱神社の始まりであるという。
三座のうちの大己貴命は小松社と称し、昔は別の所にあったのを文正元年(1466)に本宮の右方に遷座したと伝えられている。小弓村が南北に分離していなかった時代は小弓村の総鎮守であったが、南北に分かれてからは南生実村の鎮守になったという。源頼光が上総の国に行く途中、八剱神社に参詣して大弓を奉納したという伝承もある。

祭礼は7月26日27日で、かつては隔年ごとに27日には、御輿を袖ヶ浦に渡卸する行事を行っていた。※4

八剱神社の神楽については、享保元年(1716)の社殿再興の時に、上総一宮玉前(たまさき)神社から6人の神楽師が来て、巫女舞(みこのまい)・湯笹舞(ゆざさのまい)・猿田彦舞等から構成される十二座神楽奉納したことが始まりといわれ、それ以後一宮神楽の伝統を受け継ぎ、村民は八剱講をつくって神楽を伝承したと伝えられている。舞手が三方吹き抜けの神楽殿で、老人面・男女面・火男面・おかめ面・狐面等を被って黙劇風に舞う、壬生狂言の影響を受けたいわゆる江戸神楽の流れをくむ舞で、毎年7月27日の祭礼の日に地元の氏子により奉納されている。※5

また江戸時代後期の本社神主吉野重泰の記した「神楽書」「神前神楽祭事」等4冊神楽書も伝えられており、神楽とともに千葉市文化財に指定されている。
 
※3
「大日靈貴神」の「靈」の漢字は、
「雨カンムリ」に「『口』が三つ」と「巫」であるが、
実際には「巫」の部分が「女」である。
だから実際の漢字は「  」である。
※4 ※5
このページの内容は1974年出版の「千葉の歴史散歩 ~ 生実・浜野巡県案内 ~」等を参考にして、1999年にデジタル資料としてWeb化したものを2017年に復刻したものである。それ故、2017年段階では、八剱神社の例大祭は記述通りに行われていない。頑愚で排他的な姿勢の悪影響を改善しよう(e.g. 日程)と、近年は柔軟な姿勢に転換しているが、遅きに失した感がある。
八剱神社(1999年撮影)
 
神楽(撮影詳細不明)
 
神楽殿(1999年撮影)
 
神楽書(撮影詳細不明)
 

 
 |  足利義明と小弓御所  |  Page Top  |  日泰上人と七里法華  |
 
Copyright(C) 2017 Alpena Corporation All Rights Reserved.